ドイツ人活動家のナチへの引き渡し
最も悲劇的なエピソードは、ファシズムn反対するドイツ人をヒトラーに引き渡したことでした。1937年以降、ソビエト当局はドイツ国民を追放することを決定しました。2月26日10名がOSO(オソ・特別会議。国家保安諸機関の欠席行政裁判を指す)によって追放の判決を受けました。技術者、技師、コミュニスト、あるいはマルクス−エンゲルス研究所に雇われていた大学人でした。彼らは1936年の間にスパイ行為ないし「ファシスト的活動」のかどで逮捕されたのです。
1937年5月の終わりにフォン・シューレンブルクは、逮捕されているドイツ人で、強制退去措置を希望する新しいリストをソ連側に伝達しました。その中には多数の反ファシストがいました。1937年秋になると、ソビエト側はドイツ人官史が求めるとおり、追放措置を加速することを承諾しましたのです。
ナチ・ドイツとソビエト・ロシアのあいだのすばらしい友好関係は、1939年のソビエト・ナチ条約を先取りするものでした。この条約の署名後、追放ははるかにドラマティックな状況下で継続しました。ヒトラーとスターリンによるポーランドの粉砕ののち、2つの強国は共通の国境をもったことで、ソビエトの牢獄からの被追放者を直接ドイツの牢獄へ移らせることができるようになりました。1939年〜1941年にかけてドイツにたいするソビエトの善意を示す為に、200〜300名のドイツ人共産主義者がゲスタポに引き渡されたのでした。1939年11月27日、両当事者間で新しい協定が署名され、85名のオーストリア人を含む約350名が追放されました。オーストリア人の中にはオーストリア共産党創立者の一人で赤色労働組合インターナショナルの要員になったフランツ・コリチョーナーがいましたが、彼は北極圏に移送されたのちゲスタポに手渡され、ウィーンに移され、拷問されて、1941年6月7日アウシュヴィッツで処刑されました。
ソビエト当局はこれら多数の被追放者がユダヤ人の生まれであることをいささかも考慮しませんでした。ユダヤ人の作曲家で指揮者のハンス・ヴァルターはドイツ共産党のメンバーでしたが、ゲスタポに手渡された後1942年にマイダネック収容所でガス殺されました。同様なケースはほかにも多く存在したのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ドイツ人活動家のナチへの引き渡し
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月 8日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

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