武装蜂起を捨てないコミンテルン3

共産党の機関メンバーがソビエトの特殊機関の作戦の中で利用されるということさえありました。

その実例として、クチェーポフ事件があります。1928年、GPU(ゲーペーウー)は全軍統合同盟(ROVS)指導部を解体することを決定します。1月26日、将軍の姿は見えなくなっていました。多くの噂が飛交っていましたが、「エコー・ド・パリ」紙のジャーナリスト、ジャン・ドゥラージュの調査によると、クチェーポフ将軍はウルガト村まで連行されてソビエト船スパルターク号に乗せられた、2月29日にル・アーヴル港を離れたという事実でした。これ以後一人として、生きている将軍を見た者はいませんでした。

1965年、ソビエトの将軍シマーノフは赤軍機関紙「赤い星」で作戦に関与したことと、セルゲイ・プジーツキーがクチェーポフ将軍の逮捕作戦を遂行したことを明らかにしました。セルゲイ・二コラエヴィッチ・トレチャコフは1929年以降、密かにソビエト側に移り、ソビエト側に情報を与えていたのです。モスクワは提供される詳細な情報によりツァリー派の将軍の移動を把握していたのでした。交通警官を装った自動車修理工のオネルとその兄が服従を拒んだクチェーポフを短刀で殺害し、修理工場の地下に死体を埋めたのです。
 

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クチェーポフの後継者、ミレル将軍の副官にニコライ・スコブリンがいました。しかし、彼はソビエト側の工作員でパリでミレル将軍の誘拐を組織し、1937年9月将軍は失跡しました。次に、疑惑があからさまになってきたスコブリン将軍も失跡したのです。モスクワに着くとミレル将軍は尋問され、射殺されたのでした。(画像:Wikipedia ミレル将軍



参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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