武装蜂起を捨てないコミンテルン2

共産主義者の暴力の基本は少しも変わること無く、暴力の正当化、階級憎悪の日常的実践、内戦とテロルのこうした理論化は、1936年以降のスペインにおいて適用されたのです。コミンテルンは有能な多くの幹部をスペインに派遣しました。

将来の武装蜂起のための現地幹部の選抜・養成・準備といった活動はすべて、GROU(グルー)と呼ばれるソビエトの秘密機関との連絡のもとに行われました。トロツキーの庇護のもとに赤軍第4部として創設されたGROU(グルー)は任務を完全に放棄することは決してありませんでした。1970年代初頭にも、フランス共産党が信頼する若い幹部は、秘密機関の手に委ねられたソビエトの特殊部隊スペツナズのもとでソ連の訓練を受けていたのです。反対にGROU(グルー)は兄弟党に提供できる軍事専門家を有していました。マンフトーレ・シュテルンは1923年ハンブルク蜂起のためドイツ共産党のもとに派遣されたあと、次いで中国と満州ではたらき、やがてスペインにおける「クレベール将軍」となったのです。

これら非公然組織のメンバーは極端な場合、強盗に近いことが多々あり、本物の強盗に変貌した者さえいました。最も顕著な実例として1920年代後半における中国共産党の「赤衛隊」あるいは「赤い中隊」の場合です。党の行動の中心地とされていた上海で、秘密結社、青幇(チンパン)の顧順章(こじゅんしょう)に指導された手下どもは、国民党系の同類の藍衣社と対決し、テロルにはテロルを、待ち伏せには待ち伏せを、個人的暗殺には個人的暗殺を報いるというふうに、怪しげな戦闘を繰り返しました。これらの闘いはソ連の上海領事の積極的な支援を得ていたのです。

1931年4月顧順章(こじゅんしょう)の転向(国民党側についた)ののち、上海で後を継いだのは5人の共産党幹部からなる特別委員会でした。しかし、1934年には中国共産党の都市機関は崩壊し、共産党武装グループの最後の2名の指導者、丁黙村(ていもくそん)と李士群(りしぐん)も国民党の手に落ちたのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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