武装蜂起を捨てないコミンテルン
1920年代初期におけるヨーロッパと中国での壊滅的打撃にもかかわらず、コミンテルンは落胆することなく己の路線を追求し続けました。全ての共産党は秘密の軍事機構を党内に維持しており、そのモデルとなったのはドイツ共産党(KPD)です。ドイツ共産党はソビエト軍事幹部の緊密な統制下に、国内に膨大な「M(軍事)機関」を創設しました。その任務は敵対的活動家と党内に潜入した警察スパイの一掃、また赤色戦線という準軍隊的集団への幹部の配置を目的としていたのです。
共産主義者は極右や出現し始めたナチズムと闘う一方で「裏切り者社民」ないし「社会ファシスト」と決めつけていた社会主義者の会合を襲ったりしたのです。1933年以降は「真のファシズム」の実態を明るみにし、「ブルジョワ」民主主義を守る為には社会主義者と同盟する方が賢明であると証明しましたが、共産主義者はこのタイプの民主主義を根底的に認めていませんでした。
フランスでもフランス共産党(PCF)は武装グループを創設しました。組織者は党初期のアルベール・トゥランでした。1924年1月11日の共産党集会において、アナーキストが異議を申し立て、トゥランが防衛隊に助けを求めたところ拳銃で武装した集団が演壇にとびあがり、異議を唱えた者に発砲し、2名の死者と数人の負傷者を出しました。また、1925年4月23日、フランス共産党の防衛隊は極右組織の選挙集会終了時を狙って混乱を引き起こしました。この時も数人の活動家は拳銃を使用したため4人の犠牲者がでました。
1926年には国会議員に選出されたジャック・デュクロに、反ファシスト青年隊と反ファシスト防衛集団とを組織する任務を与えました。これと並行してデュクロは、内戦の技術と、街頭闘争を記述し分析する内容の雑誌「赤い戦士」を刊行したのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道
2010年1月15日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

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